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昭和43年6月14日 夜の御理解
「真に有り難いと思う心、すぐにみかげの受け始め」と教えておられますが、真に有り難いというのは、私共はどこに真に有り難いを感じさして頂くということが、お道の信心の言うなら、天地の親神様へ一貫した有り難いというものになって伝わっていくかということ。神様のおかげでとこうなるほど、神様のおかげでとこう言うならこれは金光様のご信心に限ったことはないです、ね。
神様のおかげで有り難いとこう思う。だから、ここでは何と言うてもね、ここではじゃない、金光様の御信心はあくまでも、いわゆる、金光大神のおかげでという、このおかげでと思う心が実感的なもんでなからにゃいかん。本当に金光大神が教えて下さったその御教えを、また取次いで下さるお取次を願う先生が、おかげを取次いで下さるのでございますから、親先生のおかげでと、その実感ができる、ね。
そのおかげの実感が、有難いというものになってくるのであって、私はお道の信心の本当に、真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めというのは、そんな事だと思う。今の私の御祈念が終わってからね、このお届け帳を右と左のお届け帳を2冊そこに持ってですね、霊神様の方へこう、持って行くから、ささげ持って立った瞬間に私が思うたんですよ。ここのおかげは皆、御霊様のお導きによることなのだからと。
私には力がないのだから。ここのは御霊様へのお導きがあって、御霊様がお取次して下さるのだからという思いで、こうあそこへ2冊捧げさしてもろうた途端に、私の足元にかちっとおいさみがあるんですもんねうん。これはもう私の真に有難いというのはもうこれは私の信心ではない、言うなら桂先生を始め私共の先覚または手続きの御霊様達のお取次の働きがね、それが四神様に通い。
金光様教祖様に通い天地の親神様に通うて、おかげがここにこの様に現われておるのでございます。ですから真に有難い、神様のおかげちゃあ有難いと言う事ではなくてね、問題はねこの日々親先生のお取次ぎのおかげで私がおかげ頂いておるという実感ですね。この実感が有り難いというものになってきた時に、これはもう言わば金光教のお取次のね、一貫性とこういうでしょう。お取次を願う先生から次々とこう。
金光様そして天地の親神様へとこう一貫した、この有難いというその実感がですね、親先生のおかげと思うその実感が有難いという心になってくる時に、それが私は本当のお道の信心のおかげの現われ方というのはそこから生まれてくるおかげでなからにゃいかんと。ですからどう言う事になるでしょうかね、その親先生あって親先生のおかげで私が今日おかげを頂いておるという実感がね有難いものまで高められる時にですね、。
う親先生のお言葉通りに御教え通りに、親先生の心に添わなければおられないというものが生まれてくるんですよ。ここでどういうよい信心をしておる、その幹部でござれ、総代でござれと例えば言いましてもです、ね。私の言うことをよう聞かんような幹部であり総代ならば、これは本当の意味でのおかげにはなってこないと思うんですね。これはね、私のおかげと思いなさいと言うて、それを要求するのじゃないです。
金光教の信心のお取次の一貫性というものは。同時に今日真に有り難い心とこう仰る。真に有り難いと思う心は、親先生のお取次のおかげで今日私がある。こげなおかげも頂いておるんだと実感さして貰う、そういうものが真に有り難いになってこなきゃいけんのですね。ですから、親先生の仰る事に背かれないことになってくる訳です。そういう私は同じ、その一貫性をもってとこういう事を欲言いますけれどもね。
そこでそのここでは本当に私がここの手続きの霊神様方のお取次ぎ、お徳によってお導きを頂きお取次を頂いておると言う事を、是は又それを実感さして頂いておる事がね今晩の御祈念の例えばそのおいさみからでもそれこそ実感される訳でございますから愈々私の力じゃございません。御霊様のお働きによる事であるとしてお礼が申し上げられる訳なんです。もうねここではそれをねそう実感出来るおかげがね感じられるのです。
昨日でしたか善導寺の久保山茂さんがこの自転車を2、3日前ここでお参りして来て失くしたんです。盗られたのだろうと思うんですけれどもあんまりよい自転車でもなかったのにわざわざよりによってあんな自転車を持って行ったと言う所も何かに神様の御神意じゃったろうと思うんですけれどね。それが先生もう本当にお届けもせずには、初めてあの自転車でねこちらへ朝参りをする時にね丁度お父さんが事故に遭いなさった所でね、自転車の心棒と思われる所に大きなおいさみを頂いたそうです。
もうそのことがもう感激でもう、もうどうこうされんごと感激したっち。それをお届けしていなかったと言うてから、言うておりますように。こういうことなんかでもね、本当に、親先生の信心を通して、うちの御霊を通して、私の今日の、久保山があるのも、親先生のおかげであり、うちの御霊のおかげでありとこう実感するところにね、真に有り難いというものが生まれてくるのであって、本当なものなのです、ね。
だから、ここではね、そういうようなその、特別な働きというようなものをこう頂けれるほどに、神様が生き生きとしてござるということ。今日も久富繁雄さん、ちょうど3日目ですか、お参りされて、今日、昼ごろからずっとこうおられる。もう本当に、それこそ、もう何て言うんでしょうかね、3日間もご飯を頂いておられなかったそうですから、もう弱りきったようなふうでやっとかっと今日は参って来ておられる。
そしてその、お届けされるのにですね、お夢を頂いておられるのが、そのお父さんとお母さんの御霊様。それから正義さんのお父さんの御霊様。それから、どこか與田かあちらの方に與田ですか、は?木塚、木塚のおじさんにあたられる御霊様。その御霊様達と一緒にね、何かこう、私も交えて、私と言うのは久富繁雄さんも交えて何かお話をしておる中に、久富みつかさんが入っておられるというお知らせじゃった。
私はそれを頂いてから、本当にそれこそ、神様の働きというのは間違いないなあというものを感じたんです。と言うのは、私も繁雄さんが参って来られんようになってから、いろいろ頂くことがもう実にその、容易ならないことばっかり頂くんですよ。何か私、昨日、こちらの国雄さんにも松栄会で来とりましたから、もうあんたげんお父さん、あんたどんは絶対、あてにしちゃならんと言うて
あの人はだいたいね、もう本当言うなら早死にしなさらなきゃならん運命にあるのだけれど。こういう御用が残っておる、そればっかりにあのおかげを頂いておられるのじゃから、あんた達が、お父さんがああしてくれたらいいのに、こうもしてくれる、いいというような、思いやらをかけちゃならん。もう本当に、神様の御用に専念ができるなら、それが有り難いと。
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